第4章 遺伝とは
 
 親が子供を産むという生物世界は、この息子が訴えている理屈とは違うのです。親が子供を授かるという現象は、親は本能的な働きが加わり、何らかの妨げる理由がなければ、家庭を持ち子供を育て、幸せな親子関係を望みます。しかし、子供の性別も性格も能力などの全てを親は選べないのです。

 遺伝の法則から言えることは、どんな子供が生まれるかは偶然の確率であり、誰の責任でもありません。

 子供が一方的に親に対して生んだ責任を果たせという要求など、歪んだ訴えであり、世間で通用しないことが彼には分からないのでしょうか。それとも、そのように訴えるしかないほどの苦しみの中で生きていたのでしょうか。

 本人の生育環境や学校での人間関係を聞けば、相当な苦痛を経験してきたといえますが、人間関係におけるそうした生きづらさを生み出しているのは、どのように感情を制御すべきなのかという方法を生育環境で学べなかった、他ならぬ自分自身だったのです。そうはいっても、彼を一方的に責められないのも現実です。彼自身、幼少期における両親が作り出す環境が違っていたら、もっと違った性格形成となっていたはずだからです。

 また、この後でお話しする新しい遺伝学(エピジェネティクス)によって分子レベルで理解できるように、親からの世代間伝達があり、また記憶に残っていないような幼児期の環境によっても、人は多大な影響を受け、精神的にもストレスに対して非常に敏感に育ってしまいます。それゆえに、人よりも傷つきやすく、苦痛も大きいのです。

 どのような人でも、生きづらさを感じる時、人は自分自身の気質や感情傾向を客観的に理解することが必要です。人間関係の中で人とどのように関わればいいのか、勝手にわき起こる感情や不満と、どのように向き合い処理しなければならないかといったスキルを身につけなければなりません。そうしたことを学び、取り入れていくことで、自分らしさを活かしながら自分に最適な充実した人生を送ることができるように変わっていけるのです。

 もちろん、生まれつきの性格(気質や感情傾向など)を変えるためには、時間がかかるものです。幼児期の環境から影響を受けた認知やストレス反応の調整などが必要となります。

 学校などの集団生活の中で、どのように人間関係を築いていくかといった指導を親ができなければ、専門家に依頼するなどして、子供が集団の中で生きやすくなるように導いてやる必要があります。

 しかし、この例の母親と息子の場合でも言えるように、離婚後の子育てにおいて、母親としては経済的に生活を支えることで疲れ果て、十分に子供に向き合える精神的余裕がない場合があります。しかも元夫との関係の中で、苦しみ続けることで弱ってしまった精神面を取り戻すことには母親にとっても時間を要していたのです。

 一般的に、愛着障害が生じやすい家庭環境で育った子供は、不安や心配が絶えない親子関係の中で自己肯定感を育むことが難しいとされています(第2 章P.94 ~)。そのため、集団生活において彼らは自信を持てず、自己主張もできず、自己を抑え込みながら周囲の反応に敏感になるか、周囲の気持ちを理解せずに行動や要求をし、うまく関わることができないことが多いのです。

 この例のように、母親にとって仕方がないことだったといえますが、子供が「守ってあげる……」と母親に宣言したということは、子供の前で母親が苦しんでいる姿や雰囲気をさらしていたといえます。こうした家庭環境によって、子供が受けた影響ははかりしれないものがあり、親から愛情を受けるために甘えるということが許されずに、塞ぎ込む気持ちで過ごす時間が多かったのです。これでは情緒面の成長に悪影響を及ぼしてもおかしくなく、精神的な幸福感を経験する安らぎも薄かったのでしょう。

 こうした、幼児期の、特に記憶として残っていない3歳までの環境においても、この後お話しする「エピジェネティック」な変化として、脳の扁桃体や海馬や側坐核と呼ばれる情動系の脳領域に影響を与え、成長後に、ストレスに対して非常に過敏な反応を示すようになります。

 十分な愛情に満たされないで育つことは、人生において不満を抱かせるものになります。成長後も子供の時と同じように苦痛に敏感な状態で、相手に期待し過度な要求や行動をとりやすく、自分の世界が前向きな努力によって報われるといった気持ちと期待感を奪いとってしまうのです。

 このケースの場合、幸せを求め努力している母親も、愛情を体感できなかった子供も、二人とも犠牲者という大変悲しい人生のドラマだといえます。

 この息子にとっては、もっと違った人間として生まれてきたかったかもしれませんが、それは誰のせいでもなく、生まれてきた子供が背負って生きていかねばならない宿命と受け止めるしかないのが人生です。親を責めるよりも、支えてくれる親の存在に感謝して、生きやすい人生を模索していくべきなのです。

 人は生まれながらに、多くの不条理を背負っています。周囲のもっと恵まれた人と自分を比較して、羨ましさを感じるのは人の常でしょう。さらに苦しみ嘆く人も多いのは事実ですが。しかし、どんな人でも、上には上があり、周囲を見渡せば、自分よりとても恵まれた環境やすぐれた能力を持って生まれている人がいます。

 子供にとって、両親を選ぶこともできなく、望まない両親の遺伝子を受けて生まれてくることに納得がいかないのもわかります。

 
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