追記:催眠術の歴史
 
 文明開化を迎えた明治期に西洋医学などの知識が入ってきた時に、明治政府が作り出した日本語表記によって、多くの西洋の書物が翻訳されました。

 その時、催眠術という述語も日本の明治時代に作られた熟語で、当時西洋から伝わった“ 催眠の概念と技法” を催眠術と訳されたのです。

 しかしながら、催眠術と訳されたことにより、人の心に作用して操る不思議な霊力としてのイメージで受けとられ続けてきました。

 西洋催眠術が日本に伝わった当時、日本には古代から存在していた類似性のある幻術、修験道、神道、密教、陰陽道、託宣(神のお告げ)、巫女、霊媒師(シャーマン)霊能者、超能力者など、催眠術の痕跡はあちこちで確認でき、それらの類縁性がある様々な分野と融合してみなされるようになったといえます。

 当時、明治の人々の間では催眠術を科学技術の獲得として受け入れられた部分と、「魔術」の展開として批判されていた時代でもありました。

 フランツ・アントン・メスメルに始まる近代催眠術の歴史は、1843年〜1880 年の半世紀の間、イギリス、フランス、アメリカといった欧米におけるメスメリズムと学術としての催眠術は分離されていきました。

 こうした欧米での催眠術研究の動向は、ほぼリアルタイムで文明開花を迎え開かれた日本にもたらされていたのですが、明治時代の日本においてはオカルティズム色が強く、学術としての「催眠術」とはいえなかったのです。

「催眠術」は学術=科学の研究対象になるのか、それともオカルティックな「秘術」の類なのか、この両極の間を彷徨ってきたといえます。
 

 催眠現象を大脳内部の生理学的な作用であるとして、1880 年代にジャン=マルタン・シャルコー(フランスの病理解剖学の神経科医、1825-1893)、フロイト(オーストリアの心理学者、精神科医1856-1939)、エミール・クーエ(フランスの心理学者、1857-1926)、ジェイムズ・ブレイド(イギリスの外科医、1795-1860)、アンブロワーズ=オーギュスト・リエボー(フランスの医師、1823-1904)、ヒポライト・ベルネーム(フランスの心理学者)らによって、催眠術は実験心理学、異常心理学、生理学、精神医学、精神分析の内部に取り込まれていきました。

 しかしながら明治期の日本では、スピリチュアリズム(心霊)として活用する民間人がいて、神秘的、もしくは恐れを抱かせる内容の小説が氾濫することになったのです。

 明治20 年代に入ると、催眠術をショー的に披露する演芸の形態が広まる一方で、医療に役立てようと研究する医師や学者が現れるようになり、単なる一時的な流行現象ではかたづけられない展開が続いていきます。その後も隆盛と衰退を繰り返しながら現在にいたっているのです。

 催眠が精神医学の中で研究され、脳科学の視点での研究が急激に発展したのは、MRI(fMRI)などが開発された1990 年代からとなりますので、それまで催眠現象を脳科学の視点で論じることは不可能だったといえます。現に、フロイトなども催眠の科学的視点での学術研究会に参加していたようですが、まだ当時は、脳に関してはブラックボックスであり、詳細な研究は困難な時代だったのです。


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